正しさの檻。
2014年06月30日
ふーぅぅぅ。。。
毎日全速力で駆け抜けてる感じ。
朝から夜中まで、時間がいくらあっても追いつかなひ〜。
ということでちょっと休憩。
・・・そんなドタバタの中、
アタマの片隅に「正しさや普通」というキーワードがあって。
なぜかというと、自分のソレに囚われてるヒトが周りには結構多いんやなぁ・・
と気がつく出来事がちょこちょこあって。
世の中に確固たる「正しさ」なんてものは・・本来ない。
(親からの刷り込み含め、
多数が勝手にそう定義してるだけのものはあるだろうけど)
基本、それは人それぞれの価値観によってさまざまだから。
自分の中にある「そうあるべき」みたいなのもの。
そんな自分固有の「正しさ」の尺度で外側を見始めると
苦しさがやってくる。
苛ついたり、
批判してみたり、
鬱積を溜めてたり。
コトバにしてなくても
憤りのエネルギーがオーラみたいに漂いはじめたりする。
かつて自分も、そんな苦しさ抱えた
上から目線なニンゲンだった。
親が持っていた正しさや感性。
社会で正しいとされる感覚。
「こうあるべき」みたいな。
それらと、
幼い頃のワタシなりの感覚や感性。
そのギャップに苦しみ、
そのギャップを埋めずに自分なりに生きてみたり、
それで叩きのめされ傷ついたり・・・
自分を大切にしたくても自分を信じることができなくなってて。
そんな中で創り上げた危うい「自分なりの正しさ」を、
ぎゅっと握りしめ主張することで
自分らしさや正当性を守れると思ってた気がする。
頭の中では「ワタシの正しさ」の尺度から外れてる相手をどこか見下したりして。
でも、それはどこか孤独なかんじで。
きっと「自分の正しさ」という狭く儚い幻想の檻の中から
外に向かって吠えるしかなかったのかも・・・笑
(ぶぶーー・・もー・・まぢイタすぎ)
あれから・・・ホントたくさんの学ぶ機会に恵まれて、
器の大きなヒトとたくさん出逢い、
いろーんな出来事や自分との対峙を経て・・
目から鱗をたくさん落とし、
自分の中から湧いてくるこの感覚をなによりも尊重していいっ!
とクリアに思えたことは、見える世界を一変させた。
自分と同じように、隣にいるその人も自分の感覚を尊重することを心から望んだり、
尊重すべき相手との境界線の在り方というか、
関わっていく視点や在り方そのものが大きく変化していく。
相手は自分とは感覚は違うけど、
「尊重すべき大切な存在=ヒト」という点では自分と全く同じなんだ。
・・・っていうか、
外側に感じる感情は自身への投影だから、
自分という内側への視点イコール外側への視点なんだよね。
それぞれの個性がありそれぞれに違ったプロセスを自ら選んでいて、
それはどんどん変化していく・・・
という、しごく当然の事実が心の底で腑に落ちた時、
本当に生きるのが楽になった。
自分の正しさや主張を他人に向けて誇示したいのは、
自分が自分を認められない不安を周りの承認によって埋めたくなるから。
自分を尊重できてると自分の正しさや感覚を主張する必要も欲求もない。
なぜなら、それを他のだれかに認めてもらう必要がないから。
本当に本当に、自分を肯定して生きられると楽ちんこの上ない。
・・し、誰かを否定したり傷つけることもない。
未だ生きていく中で、
自身と世間を隔てるギャップの折り合いを付けるのに時間が掛かったりもするし、
そういうことが器用にやれない自分をまどろっこしく想ったりもするけど・・
自分の正しさの檻 のトラップにハマらないで
自分の外側の世界と自分自身に
尊重と感謝の気持を忘れずにいられたらと想う。
毎日全速力で駆け抜けてる感じ。
朝から夜中まで、時間がいくらあっても追いつかなひ〜。
ということでちょっと休憩。
・・・そんなドタバタの中、
アタマの片隅に「正しさや普通」というキーワードがあって。
なぜかというと、自分のソレに囚われてるヒトが周りには結構多いんやなぁ・・
と気がつく出来事がちょこちょこあって。
世の中に確固たる「正しさ」なんてものは・・本来ない。
(親からの刷り込み含め、
多数が勝手にそう定義してるだけのものはあるだろうけど)
基本、それは人それぞれの価値観によってさまざまだから。
自分の中にある「そうあるべき」みたいなのもの。
そんな自分固有の「正しさ」の尺度で外側を見始めると
苦しさがやってくる。
苛ついたり、
批判してみたり、
鬱積を溜めてたり。
コトバにしてなくても
憤りのエネルギーがオーラみたいに漂いはじめたりする。
かつて自分も、そんな苦しさ抱えた
上から目線なニンゲンだった。
親が持っていた正しさや感性。
社会で正しいとされる感覚。
「こうあるべき」みたいな。
それらと、
幼い頃のワタシなりの感覚や感性。
そのギャップに苦しみ、
そのギャップを埋めずに自分なりに生きてみたり、
それで叩きのめされ傷ついたり・・・
自分を大切にしたくても自分を信じることができなくなってて。
そんな中で創り上げた危うい「自分なりの正しさ」を、
ぎゅっと握りしめ主張することで
自分らしさや正当性を守れると思ってた気がする。
頭の中では「ワタシの正しさ」の尺度から外れてる相手をどこか見下したりして。
でも、それはどこか孤独なかんじで。
きっと「自分の正しさ」という狭く儚い幻想の檻の中から
外に向かって吠えるしかなかったのかも・・・笑
(ぶぶーー・・もー・・まぢイタすぎ)
あれから・・・ホントたくさんの学ぶ機会に恵まれて、
器の大きなヒトとたくさん出逢い、
いろーんな出来事や自分との対峙を経て・・
目から鱗をたくさん落とし、
自分の中から湧いてくるこの感覚をなによりも尊重していいっ!
とクリアに思えたことは、見える世界を一変させた。
自分と同じように、隣にいるその人も自分の感覚を尊重することを心から望んだり、
尊重すべき相手との境界線の在り方というか、
関わっていく視点や在り方そのものが大きく変化していく。
相手は自分とは感覚は違うけど、
「尊重すべき大切な存在=ヒト」という点では自分と全く同じなんだ。
・・・っていうか、
外側に感じる感情は自身への投影だから、
自分という内側への視点イコール外側への視点なんだよね。
それぞれの個性がありそれぞれに違ったプロセスを自ら選んでいて、
それはどんどん変化していく・・・
という、しごく当然の事実が心の底で腑に落ちた時、
本当に生きるのが楽になった。
自分の正しさや主張を他人に向けて誇示したいのは、
自分が自分を認められない不安を周りの承認によって埋めたくなるから。
自分を尊重できてると自分の正しさや感覚を主張する必要も欲求もない。
なぜなら、それを他のだれかに認めてもらう必要がないから。
本当に本当に、自分を肯定して生きられると楽ちんこの上ない。
・・し、誰かを否定したり傷つけることもない。
未だ生きていく中で、
自身と世間を隔てるギャップの折り合いを付けるのに時間が掛かったりもするし、
そういうことが器用にやれない自分をまどろっこしく想ったりもするけど・・
自分の正しさの檻 のトラップにハマらないで
自分の外側の世界と自分自身に
尊重と感謝の気持を忘れずにいられたらと想う。
Posted by chiho at 23:59│Comments(0)
│ひとりごと。